春のあけぼのは三文の徳
先日なぜか、朝早く目が覚めた。
その後なかなか寝付けないので何気なく、外に目をやると、外が白んできているようである。
『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる』。
めったにないチャンスだからと思い外へ出てみた。
するとどうだろう今まさに日が昇ろうとしているではないか。
山裾から朝日が昇り、空も雲も、あたり一帯がピンク色のグラデーション一杯に彩られている。
素晴らしい自然のドラマの幕開けである。
清少納言が表現したかった『春はあけぼのが素晴らしい』。とはこの情景のことだったのか。
現代的に言うならば『春はあけぼのが美しすぎる』。
なるほど清少納言が一日の始が朝にあり、四季の始まり、ひいては一年の始まりに、そして「枕草子」のはじめとして「あけぼの」を文頭に選んだ理由がわかるような気がする。
名詞止、体言止めなどという文法の枠を超えて「春のあけぼの」は美の極みである。
「春のあけぼの」を音楽で体感する為に、マーラーMahlerの交響曲第1番「巨人」のCD第一楽章かけてみた。
マーラー: 交響曲 第1番 「巨人」 ニ長調 第1楽章 ラトル / バーミンガム市交響楽団
(出だし第一楽章は、微細音pppですのでよく耳を澄ませてお聞きください。)
暗闇から次第に夜が明け、朝日が昇り、小鳥たちが囀り、一日の始まりがよく表現されていると思う。
目と耳で「春のあけぼの」を体感し、幸せ感で一杯の朝を迎えたのはラッキー、チャチャチャ。
まさにルンルン気分である。
体に朝日を浴びるのは体内時計がリセットされ、セロトニンという安らぎ・幸せホルモンが分泌されるので健康に良いようだ。
体内時計を、毎朝、一定の時間にリセットすることは、健康をリズム良く、維持するには大切だと思う。
体中にエネルギーが満ち溢れ、今日一日何かいいことが起きそうである。
まさに今日は「早起きは三文の徳」。を体現できた。
「春のあけぼは三文の徳」。というべきだろうか。
The early bird catches the worm. 「早起きは三文の徳」
肯定的に否定する「~かねます」は日本の文化である。
ある時パートのおばさんに仕事を頼もうと思って「今、手が空いてますか」と尋ねたところ、「右手はふさがってますけど、左手は空いてま~す」。という答えが返ってきました。
何か頼みたいという気持ちを察してであろうか、『今忙しいんですけど』という否定的な返事ではなく、「右手はふさがってますけど、左手は空いてま~す」。とはなんと面白い答え方をするもんだと、思わずクスッと笑ってしまいました。
またある寒い日に、行きつけのコンビニで弁当を買った時のことである。
お目当ての弁当をもって、レジに並び会計をしようとしたところレジ係のかわいい女の子が「レンジで温めますか?」と聞くので「お願いしま~す」。そして何気なく「僕のココロも温めてくれる?」と言ってみた。
するとすかさずにっこり、『そのうちね~』とほほを赤らめながら答えたのである。
いいねいいね、脈ありだ。
『このお客さん何考えてるのかしら。おかしいんじゃない』。と普通なら思うところであろう。
ところがそっけなく否定せず、僕のようなやんちゃ坊主の客にも、不快な気持ちをさせないようにという気配りであろうか、にっこり笑顔で洒落た会話ができるとはなんと「イカシタ女の子」なんだろうか。
ビジネスシーンで最も難しいとされるお「断り」の日本語的表現に「~かねます」というのがある。
例えば「お受けできません」ではなく、「お受けいたしかねます」という。
又「応じかねます」、「わかりかねます」、「ご期待には沿いかねます」と応える。
また「わたしでは答えられません」と言いたいところで「わたくしではお答えしかねます」。というのがビジネスを円滑に運ぶためのスキルというものです。
肯定的に否定するという高等技術である。
肯定的に否定する「~かねます」は悩ましい表現ではあるが日本の文化である。
また、QC(品質管理)活動におけるルールの一つに『原因は「他責」ではなく「自責」として捉え』、「他人の意見を否定しない」というのがある。
「他人の意見を否定しない」という技はグループディスカッションにおいてはなかなか難しいことではあるが素晴らしい「発想」である。
例えば、コップに目盛り2cmほどのお酒があるとする。これを「もうこれしかないのか」と思って飲むのと「まだこれだけあったのか」と思って飲むのとはおのずから味は違うものである。
人生、物事はすべからく肯定的に捉え、表現し、人間関係を円滑にし、楽しく愉快に過ごしたいものであることよ。
みちのくの花鳥風月・春の宵
古都では由緒正しき春は終わりを告げ、みちのくでは待ち焦がれた春がようやくやってきた。 桜が咲き、ひとひらの花びらが舞い落ちはじめ、やがて花吹雪となって散り、今は藤の花やつつじがあちこちで咲き乱れ、百花繚乱の様相を呈している。
生きとし生けるものすべての命が再び誕生している瞬間である。新生の時とでもいうべきであろうか。
しかし始まりがあればすべてに終わりも訪れる。
「会うは別れの始まり」だとか。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」とは林芙美子が色紙などに好んで書いた短詩である。
そしてその昔「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」と絶世の美女であった小野小町も詠っている。
花は咲き、盛りを迎え、やがて散る。季節は移ろい、再び訪れる。
しかしそれらは決して去年と同じではない。
そんなことに思いをはせていると、鳥が囀り、香しき香りの花々に彩られし季節をわが身は来年も迎えられるのだろうか、このピンクのグラデーションの景色を体感できるのだろうかと思ったりしてみる。
近頃は、年を追うごとに、一日々がいとおしく感じられてならない。ならば生かされていることに感謝しつつ、一日一日を心置きなく、精一杯生きていくほかあるまいと思う春の宵である。
でもね♪~ 今はもう 初夏の幕開けなのである。 あっ、しょう(初夏)か!